ぜつえーの日記

今から20年前、とある病院で玉のような男の子が産まれた。その笑顔は見る者全てを癒し世界中を温かい光が包み込んだ。世界もまたそれに応えるように豊饒な愛をもって大切に大切に育て始めたという。 10年後、己が生まれつき『童顔』『低身長』という業を背負っていることを自覚した少年は順風満帆と思われた己の運命に一筋の暗雲がたちこめ始めていることを意識した。 さらに10年の時が経ち、かような過去に唾を吐き捨て背負い続けてきた業を両腕に抱き抱えながらひとり笑顔で明日に向かわんとする胡乱で前向きな怪物の姿がそこにはあった。

親孝行

 

5月になりましたね。おはようございます。ぜつえーです。

 

 

 

 

学校行きの電車に揺られております。

 

 

一昨日は毎年行われる父の職場主催のバーベキューに参加してきました。

 

去年とか一昨年は行ってなかったような気がするのでかなり久々の参加でした。

 

と言っても職場の人間の知り合いの知り合いの知り合いくらいまでは参加できるガバガバっぷりなのでもはや誰が誰だかは分からないような状態。

 

かくいう我が家も近所で仲の良い1家族を誘って参加して頂きました。

 

小さいお子さんが2人いるんですけど、自分はお腹いっぱい食べた後はその子らとサッカーしたりバドミントンしたりシャボン玉したり、ほとんど遊んでました。正直めっちゃ疲れました。

 

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毎年専務さんが漬けてくれるお肉。

なにをどうやったらこの味になるのかは分からない。

 

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赤身と脂身のバランスが最高ですごく食べやすいお肉でした。エビとかイカも焼いてましたね。好物ばかりで幸せでした。

 

 

 

 

昨日も1日休みだったのでいつも通り朝走って、

 

読まなきゃいけない本を読んで、簿記の教科書を眺めていました。良い天気でしたね。

 

最初はあんなにきつかった筋トレもメニューもラクラクになってきてしまいました。少し増やそうかな。

 

 

 

 

10代との別れが迫ってきました。

 

 

10歳になった時の自分はなんだか少し大人になれたような気がして嬉しかったのを覚えています。

 

バーベキューに参加してくださったご家族のお母さんの、子供に向ける目線や言葉を思い出します。

 

思えばここまで本当に多くの人に見守られて生きてきたんだなあと痛感しました。

 

去年の11月、祖父が亡くなりました。

 

祖母が自宅で床屋を経営しているので、幼い頃から髪を切ってもらって、切ってもらった髪を祖父(元理容師)に見せて、似合ってるよとか、ここもう少しこうしたほうがいいんじゃないかとか

 

夏にはセミの幼虫を捕まえに行って、帰りにはアイスを買ってくれました。

 

セミは成虫まで育てて家で放って祖母に怒られました。

 

花札やオセロといったテーブルゲームもたくさん教えてもらって

 

テレビゲームもたくさんたくさんやりました。

今はもう名前も思い出せないファミコンのゲームでも、祖父と過ごした「楽しい記憶」としてずっと頭に残っています。

 

私にとって、本当に楽しい時間を、思い出をたくさんくれた人でした。

最期まで、いつも座ってるテレビの前の座椅子に座って、なんてことない普通の日の朝、眠るように息を引き取りました。

 

 

 

祖父は、近所にできたお寿司屋さんに、私とずっと行きたがっていました。

私は学校やバイト、遊びを理由に断ってばかりで、最後の会話も、バイト中にかかってきた誘いの電話に対して「今バイト中だから、またかけるね」と言ったのが最後でした。

あまりに突然の出来事に、頭がぼーっとしました。

 

 

今祖母は1人で仕事をしながら生活をしていますが、たかだか20年でヒィヒィ言ってる私に比べて、何十年と一緒にいた人との突然の別れがあったのに、最初こそ狼狽していましたが、テレビでやってたという夏バテ予防の料理を1人作っては食べ、認知症に良いと聞いては塗り絵を始め、そんな生活を普通に送っています。残された「女性」の逞しさ、底力のようなものを感じました。

 

宮城から1人、理容師の夢を叶えるために上京し、夢を叶えて3人の娘を育て、今もなお働き続ける祖母と、5人の孫の成長を見届けながら、私たち孫の成人式にかかるお金だけでなく、自分の葬式にかかる費用すべてを賄えるほどの貯金をちゃんと残して、誰の手を煩わせることなく眠りについた祖父は、今にして思えば、最初から雲の上を生きているような人たちでした。

 

 

 

「今まで散々手かかったのに、最期だけは全然手かかんないんだもん」

 

そう言って、祖母は笑って、泣いていました。

 

 

ちょうど学園祭の日の朝だったので、私は現場に駆けつけることができませんでした。

そんな中で学園祭での仕事をこなして、わけもわからないまま通夜に出席して

 

疲れが出たのか高熱を出して倒れました。

 

告別式に出ることができませんでした。

 

熱がなかなか下がらなくて辛かったところもありましたが、なによりもあれだけ世話になった祖父に、別れの挨拶ができなかったのが腹の底から悔やまれました。

 

 

それから毎日、「生きること」と、「死ぬこと」について考えていました。

 

 

2人の兄弟を早くに亡くし、両親とも別れ、たった1人で生きてきた祖父の人生は、決して平坦なものではありませんでした。体が弱く、心臓を悪くしてからは、好きな食べ物もろくに食べられなくなり、体力も落ちてきて、外出する機会も減っていきました。だからこそ、たまに来る子供や孫の姿を見ることだけが、唯一の楽しみであったことが分かりました。

 

もっとやりたいこと、見たいもの、食べたいもの、たくさんあったかもしれないけれど

 

子供と、たくさんの孫、そしてなにより、最愛の妻に看取られて逝った祖父は、幸せだったと思います。

 

今もし祖父に「幸せな人生であったか」を尋ねたら、「自分にはもったいないほど幸せだった」と答えると思います。

 

 

「あぁ、こりゃもういつ死んでもいいなぁ!」

 

祖父の口癖でした。

 

 

 

こんな気持ちになることが、私にはこれから何度もあるのだろうと思います。

 

 

よくわからないまま私たちはこの星に生まれて、手と足があって、心があって、家があって、家族がいて、学校に行き、笑って、泣いて、仕事をして、ちょっとのことで悩んで、また笑って、そうやって何年も何年も生きていく。

 

その中で出会った人や体験した出来事、見た景色は、私たち一人一人の中で途方もなく愛おしいのに、

 

 

 

それらをプツンと消してしまう。

 

それが「死」です。

 

 

 

 

戦争こそ非日常のなりつつある現代ですが、

 

「死」というものはいつやってくるのかわかりません。

 

数年前、津波地震で1万8,434人が亡くなり、行方不明になりました。

 

彼らには一人一人、「人生」がありました。

 

私たちと何の変わりもない、赤ん坊として生まれ、たくさんの愛情を注がれ、小学生、中学生、長い時間をかけて色んな人と出会い、美味しいものを食べ、綺麗な景色を見て感動して、怖いテレビを見て怖がって、友達とくだらない冗談を言って笑い合って、今日の夕飯はなににしようとか、明日も仕事頑張るぞとか、中学生になったら新しい友達できるかなとか、

 

私たちとなんにも変わらない、「人生」を生きてきた人たちで、

 

そんな「普通」の毎日が、ずっと続くと思ってた人たちで、

 

明日はなにやろうとか、来月、来年の話を当たり前に、たくさんしてきた人たちだったと思います。

 

 

人間という生き物が弱いということを、あの日私は知りました。

 

 

最後に待っているのが絶対的な「無」であるのに、それへの恐怖を無理やり飲み込んで、私たちは毎日を生きているのでしょうか。

 

それは違うと思います。

 

 

私たちは、考えないようにしているような気がします。

 

どんなに頑張って、どんなに努力して生きても、最後には肉体は滅び、骨は灰になり、眠っているのと変わらない、永遠の無意識が訪れる恐怖を、考えないようにしているような気がしてなりません。

 

 

古来から「人はいかにして幸福になり得るのか」という問いを人間たちはあらゆる観点から考えてきました。

 

 

 

そんな恐怖に打ち勝つために、人類が発明したのが「宗教」です。

 

 

宗教は人類に救いをもたらしました。それは、「死後の世界」、つまり死んだらそこで終わりでは決してないのだとし、「死」が終わりだとして、それが怖いなら、続きを書き足すほかなかったのです。現世で善い行いをすれば…南無阿弥陀仏と唱えれば…メッカに向いて1日5回お祈りを捧げれば…天国に行ける。極楽浄土に行ける。たとえ現世で無念にもまっさらな灰になったとしても、『死後の世界』で"幸せ"になれると。

 

 

それを信じることで、多くの人が死への恐怖に打ち勝ち、明日に希望を持って生きています。彼らはそういった意味で『救われた』のです。

 

 

今から約2,500年以上前、日本で言えば弥生から縄文へと移り変わる時期、文字もない、貨幣もない、そんな時でした。儒家の始祖として有名な孔子と呼ばれる人物は、その優れた思想の奥深さから3,000人の弟子がいたと言われています。しかし、その死生観については、没後に弟子たちが孔子の言行をまとめた書物である、『論語』にも、あまり多くは語られていません。

 

 

ある時、弟子の1人である子路が「死とはなんでしょう」と尋ねました。

 

孔子は、「未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん。」と答えました。

 

生、生きるということについてもよくわからないのに、どうして死のことがわかるだろうか。と答えました。

 

目に見えない「死」を畏れるあまり、自ら命を絶つ人も少なくないこの世の中で、今から2,500年も前の人がこんなことを言っているのです。

 

 

そんな孔子の最愛の弟子で、後継者として考えるほど優秀だった顔回という若い弟子が亡くなった時、孔子

 

顔淵死す。子曰はく、噫(あぁ)、天予(われ)を喪ぼせり。天予を喪ぼせり。

 

天は我を滅ぼしたと、激しく慟哭します。

 

 

孔子にとって天とは、己の運命、宿命のことで、天命を信じ、従い生きてきた孔子にとって、その天が自分を滅ぼすほどの絶望感だったわけです。その悲哀は計り知れません。

 

 

 

その時孔子は、人の姿をして多くの人間に使命と幸福をもたらしていたはずの神が、必然の運命へと姿を変えて存在していることに気が付いたのです。

 

「死後の世界」を否定してしまった儒教に、現世での幸福実現の道はもう残されていないのでしょうか。

 

 

 

孔子は、

 

身体髪膚、これを父母に受く。敢えて毀傷せざるは、孝の始めなり。身を立て道を行ひ、名を後世に揚げ、以て父母を顕はすは、孝の終りなり。

 

という言葉を残しています。

 

私たちの身体は髪から皮膚に至るまで、すべてを父母から授かったものである。それを大切に守っていわれもなく痛みつけないようにする。それが孝行の始めである。立派に成長し、正しい道を志し、その名を後世まで高く掲げて、そうして父母の名前まで世に知らしめ輝かせる。それが孝行の終わりである。

 

 

 

それを、

 

 

 

2,500年前に言った孔子の言葉は、

 

 

 

 

 

2,500年という膨大な歴史を、

 

 

 

 

 

 

生き続け

 

 

 

 

 

海を渡り

 

 

 

 

 

今の私たちに届いているのです。

 

 

 

 

 

 

孔子という名は、国も時代も何もかも違う現代を生きる我々の目に留まり、今も輝き続けています。

 

 

 

孔子は、今も生きているのです。

 

 

 

 

弱くてすぐに消えてしまうような生き物として生まれてしまった以上、簡単なことで死んではいけないのだと、テレビを見ながら思いました。

 

 

生き続ける、生き続けて、死んでもなお、生き続ける。

 

 

 

それが孝行になるのなら、生き抜いてやろうと思いました。

 

 

名前を世に知らしめるほどのことを、望んでいる人は少ないかもしれません。

 

 

 

しかし、こんなに簡単に消えてしまっていいのか、拾って集めてきたものを、あっさり全て失うのはとても悔しいです。

 

 

そんな世の中に抗う唯一の方法が、名を残すこと、そして笑って死ぬことなのではないかと思いました。いかにして生きるかを考えるということは、いかにして死ぬかを考えることと同じなような気がしました。

 

 

 

 

 

10歳に戻りたいとはさすがに(少ししか)思いませんが、20歳にはこれから幾度となく戻りたいと思うような気がしてなりません。

 

だからこそこうして毎日を噛み締めて生きていく必要がなおのことあるような気がしました。

 

いつかの自分が安心して頷いてくれるような毎日を過ごしたいです。

 

ていうか、書き終わる頃には大学終わって帰ってきて夜になってたよ、なんだこれ。

 

 

今日も一日お疲れ様でした。おやすみなさい。